思い出そう、あの日あの時

今まで感じたこともないような大きな地震


それが


日本をこんなに大きく変化させた


東日本大震災となりました。


3年が経って


被災した人も被災を免れた人も


さまざまな思いがあり


あるいは思いが薄れたり変化したり


まったく変わらなかったり


そんな3年だったと思います。


私はあの日


仕事の勤務に入っていて10分間休憩でオペレータルームから出ていました。

トイレを済ませた後、館内の休憩室に
同僚の仲間と一緒にテーブルの席に腰かけた瞬間でした。


男性社員が二人
休憩室(食堂)の窓のブラインドか何かの調子が悪く修理していましたが


揺れが始まるとふたりともすぐに食堂に備え付けている大型テレビが倒れてくるのを止めに
慌てて移動しおさえこみました。


私と同僚はテーブルの下に身を隠しました。

頭上にはガラス製のペンダントライトが大きく揺れていたのを覚えています。


そしてとっさに携帯でフミヤに発信

絶対にすぐつながらなくなると感じたからです。


「テレビはいいから揺れが収まったら外に出て!それから小学校へ行って私が行くまでツグミと一緒にいて!!電話を切らないまま行動して!落ち着いてよ!」


「落ち着くのはそっちでしょ。」フミヤは案外冷静でいて


(フミヤは当時高校生で期末テストの時期のためあの時間に自宅に帰っていました。)

結局携帯は電波が間もなく途切れ暫く連絡がつかない状態になります。



職場の私たちは誘導され建物の外に出て暫く待機した後、解散となりました。

私は休憩だったので私物をほとんど持っていたため、館内には戻らず1番最初に車で駐車場から出ました。

余震が続き道路のあちこちに崩れたブロック塀や置き去りになっている荷物などを横目に
自宅へと急ぎました。

普段の倍以上の時間が経っても家にたどり着けず

佐倉市内に入ると渋滞が著しくなり車は少しずつしか進まなくなりました。

国道を横切る京成電鉄が遮断機を下ろしたまま電車は止まって動かない状態になっていたので
その近辺の渋滞がひどくなっていたようです。


私は抜け道の小さな踏切り近くまで行き、その近くの飲食店裏の駐車場に車を置かせてもらい
そこから2kmほど走って小学校へ向かいました。

緊急引渡しで保護者が迎えにくるまで児童は学校にとどまっていると考えていたからです。

走ろうと思っても足がもつれて気ばかり焦っていました。

学校へ着くと
担任の先生が

「ごくろうさまです。ツグミさんはお兄ちゃんが迎えに来たので一緒に帰っています。」


「えっ?そうなんですか・・・」


これじゃ1年に1回練習している緊急引渡しの意味がないじゃないか!


引き渡し者に記入している人が行くまで保護しているのが緊急引渡しだろうが!!


そんな憤りは落ち着いてからゆっくりと湧いてきた不満でしたが。


自宅に戻ると玄関のドアを開けたままドアの前に二人で座っていました。

さすがに私を見つけて安心した表情を浮かべ

「家の中はぐちゃぐちゃだよ!すごいことになってるよ!テレビでもすごいよ!大変だよ!」

割れ物が散乱していたので靴のまま家に入り

万が一のために避難する準備をするよう着替えをリュックに詰めるよういい

家の中を見て回りました。1階は棚のものが落ちたり、台所で食器が割れたり
金魚の水槽の水もかなりこぼれていました。

2階へ行くと寝室のベッドが3台とも位置が大きくずれていて驚きました。

奥のフミヤの部屋に入ると

鍵をかけていなかった窓が揺れで全開になってカーテンがバタバタとたなびき

机の上の本類がすべて床に落ちぐちゃぐちゃ

揺れの被害はフミヤの部屋が一番でした。



一瞬フミヤと通話ができた時に

「テレビはもういいから」

と私が言ったのは3日前にようやく購入した薄型大型テレビがきっと倒れているだろうと予想したからです。


でもテレビは奇跡的に揺れに対して垂直においてあったせいかテレビ台からずれただけで



皮肉にもその大型画面では

あの忘れもしない大津波が押し寄せる映像や町の中を荒れ狂う津波の映像をヘルメットをかぶったアナンサーたちが伝えていました。



この時私は

まだ主人や実家の家族の様子がわからなかったので

不安を隠そうと気を張り詰めていました。


暗くなった道を「大丈夫、大丈夫だよ」と二人に声をかけながら車を取りに歩いて向かいました。

そこから自宅まで普段ならほんのわずかな距離をずいぶんな時間をかけて帰って来ました。


家に着くと主人がすでに帰宅
道路も渋滞、電車も止まっているからと会社から3時間以上かけて自転車で帰って来ていました。


その間に実家の無事もある程度わかったのでやっと少し安心


その日は2階の寝室ではなくリビングに4人並んでテレビ報道をかけたまま眠ることにしました。


余震のたびに私とフミヤは目をさましというかほとんど眠れませんでした。


異常な事態に精神的に刺激を受け興奮に近かったのだと思いますが



その後私が

大惨事に頭が真っ白になり、おかしくなり始めたのは翌朝から。



あとは


徐々に報じられる被災状況に


さらにさらに


心が押しつぶされていってしまいました。










なぜ



私が今



こんなことを長々記しているのかというと





時の経過とともに少しずつ薄れていく記憶を



決してなくしたくないのです。



一生この日のことを


心に留めておくために


ここへ記してここへ戻って来よう。


そう思ったから。


私が抜け殻のように愕然としている間に
主人が何も言わず、もくもくと家の中を片づけてくれたこともそう。

あの時に思ったこと、悲しかったこと、怖かったこと、苦しかったこと、

みんなが心配しあいメールや連絡を交わしたこと

グーグルでつながれたこと

そんなことをいつになっても思い出そう、感謝の気持ちも。



あの日のあの時

あなたは何をしていましたか?何を思いましたか?




あの日を思い出すべき時が


私は必要なんです



多分この先も一生。
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by cowata | 2014-03-11 00:00 | 日々のこと